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ダーウィンの宗教観から学ぶ。本当の神様とは?

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Paul Nash 作 「The Creation of Adam and Eve」 出典:wikiart.org



 

前回の記事で、ダーウィンの宗教観を引用しましたが、

彼の宗教観について少し気になったので、

ここでそのことについて考えてみたいと思います。

 

宗教観[編集]

1880年の肖像写真。晩年まで研究を続け、進化理論だけでなく自然科学の幅広い分野に影響を与えた。

典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。

ダーウィンの家庭は英国国教会を受け入れておらず、そのうえ祖父、父、兄は自由思想家だったが、ダーウィン自身は聖書の無誤性を疑わなかった。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだ。ウィリアム・ペイリーの自然のデザインは神の存在の証明であるという自然神学を確信していた。しかしビーグル号航海の間に疑いを持ち始めた。例えばなぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在がペイリーの慈しみ深いデザイン論といったいどのように調和するのか?

彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。種の変化を調査しているとき博物学の友人たちがそのような考えを、神授的な社会秩序をむしばむ恐るべき異教で、英国国教会の特権的な地位を批判するための反国教会主義者か無神論者による急進的な主張の一種だ、と考えていることを知っていた。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると思っていた。しかし1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した。地元の教会の人々とともに教区の仕事を手伝い続けたが、家族が日曜日に教会に通う間は散歩に出かけた。そのころには痛みや苦しみを神の直接的な干渉と考えるよりも、一般的な自然法則の結果と考える方がよいと思っていた。1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。このセクションは『自伝』が出版されるときにエマと息子のフランシスによって削除された。1958年に孫娘ノラ・バーロウによって出版された新しい版では削除された全てのセクションが元通りおさめられている。1879年に書かれた書簡では、自分はもっとも極端な考えに触れた時であっても神の存在を否定すると言う意味における無神論ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べている。晩年のダーウィンの友は、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れるダーウィンの遅疑逡巡を回想している。またその当時のダーウィンは、進化論という名称が含む意味合いの一人歩きや、自然選択説を唯物論的に捉えようとする一部の自身の支持者の動きについて、非常に嫌悪感を示すようになっている。

1915年に出版された『ホープ夫人物語』はダーウィンが死の床で信仰を取り戻したと主張した。ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べた。彼の最期の言葉は妻に向けられた。「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」[19]

 

出典:チャールズ・ダーウィン - Wikipedia

 

 

 

 

ダーウィンは、死について、次のように述べています。

『もっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。』

神様は、自然現象をも司られています。

それなのに、死が神様や罪とは関係なく、自然現象の一つであるなら、

神様は、自然現象よりも小さな存在だということになってしまいます。

神様に対する認識が、あまりにも間違っていると感じました。

 

ダーウィンは、次の箇所に、

旧約聖書には批判的だったと書かれていますが、

『彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。

旧約聖書を信じることができないのであれば、本当の意味で、

神様がどのような御方かを理解していないか、

信じたくないのかもしれないと私は感じます。

ダーウィンが信仰していたのは、キリスト教であり、

その神は、イエス・キリストということになっています。

しかし、イエス・キリストは、預言者です。

そう言う意味では、

本当の神様を信じていなかったからこそ、

献身的な介護の甲斐無く

アニーは亡くなったのかもしれません。

 

次の箇所には、

『しかし1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した。』

とありますが、これは、アニーの死が、

ダーウィンの間違った神への信仰に終止符をうち、

ダーウィンはむしろ救われたのかもしれないとさえ感じます。

なぜなら、どんなにイエス・キリストを神と崇めても、

本当の神様は喜んではくださらないからです。

 

旧約聖書を読むことで、

本当の神様がいかに偉大で恐ろしいかということが

よくわかります。

しかし、新約聖書を読むと、

そこにはイエス・キリストという

身近で優しい”神様?”が登場してきて、

人によっては、ホッとするのかもしれません。

 

しかし、先ほども書きましたが、

イエス・キリストは、神様ではありません。

あくまでも、預言者の一人です。

こういうことを言うと、

キリスト教信者の方に叱られてしまうかもしれませんが、

私は、これが真実だと思っています。

 

私にとっては、イエス・キリストが神なら、

あまりにも優しすぎて、物足りないし、

おそらくそういう神様に御叱りを受けても、

私は言うことを聞かないと思います。

本当の神様は、

もっと恐ろしい存在であってほしいとさえ思うのです。

 

コーランには、イエス・キリストについて次のように記述されています。

 

コーラン第9章 タウバ章 悔悟

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

第30節

وَقَالَتِ الْيَهُودُ عُزَيْرٌ ابْنُ اللَّهِ وَقَالَتِ النَّصَارَى الْمَسِيحُ ابْنُ اللَّهِ ذَلِكَ قَوْلُهُمْ بِأَفْوَاهِهِمْ يُضَاهِئُونَ قَوْلَ الَّذِينَ كَفَرُوا مِنْ قَبْلُ قَاتَلَهُمُ اللَّهُ أَنَّى يُؤْفَكُونَ

ユダヤ教徒は、オザイルを神の子であると言い、キリスト教徒は、イエス・キリストが神の子であると言った。これは彼らが口にした言葉であり、それ以前の不信心者の言葉によく似ている。神が彼らを殺すように。どうしたら真理に背を向けられるというのだろうか」 (9:30)

この節は、啓典の民の誤った迷信的な信条について述べようとしています。彼らは唯一の神を信じていないとした前の節に続き、この節はこう語っています。「一部のユダヤ教徒は、神の命により、100年ののちに再び生き返ったオザイルという名の預言者を、神の子と見なしていた。キリスト教徒たちも、夫のいない母親から生まれたイエスキリストを、神の子と見なしている。こうした彼らの言葉は、天使を神の娘と見なし、神に子があるとした多神教徒や不信心者の信条によく似たものである。このような多神教徒や不信心者の中傷は、神を激怒させた。その結果、神は彼らを死へと招き、こう言った。『このような不当な中傷を神の神聖な性質に浴びせるとは、神がそのような輩を殺すだろう』」

第30節の教え

・預言者や宗教指導者など、宗教の偉人たちについて誇張し、彼らが人間の域を超えているように見せてはなりません。彼らはどんなに優れていても人間であり、神の子ではありません。

・迷信は、啓示宗教にとって危険の最たるものですが、残念なことに、ユダヤ教とキリスト教の啓典は、それに陥ってしまっています。

・迷信と闘うことは、宗教の偉人の最大の責務であり、そうすることによって神の宗教が汚されないようにするのです。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

 

コーラン第19章 マルヤム章 マリア 第88節~第92節

 

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

88節~第89節

وَقَالُوا اتَّخَذَ الرَّحْمَنُ وَلَدًا

لَقَدْ جِئْتُمْ شَيْئًا إِدًّا

多神教徒たちは言った。『慈悲深い神は子を設けた』 本当に彼らは醜い言葉を発した (19:88~89)

 

興味深いのは、イスラム以前の宗教にも、逸脱した考え方が広まっており、コーランの節によれば、ユダヤ教徒は、預言者オザイルを神の子と見なし、キリスト教徒も、預言者イーサーを神の子と見なしていました。それは、それ以前の宗教に逸脱があったことの証拠です。コーランは、こうした考え方を強く否定し、このように語っています。「彼らが神に関連付け、口にするそのような考え方は、醜く誤ったものである」

 

88節~第89節の教え

誰かを神の子だとするのは、たとえそれが神の預言者であったとしても、神に対する深刻な冒涜、中傷です。なぜなら、創造主と創造物の関係は、父と子の関係ではありえないからです。

神に子がいると信じるのは、実際、多神教信仰であり、唯一神の信仰を外れたものです。

  

90節~第92節

تَكَادُ السَّمَاوَاتُ يَتَفَطَّرْنَ مِنْهُ وَتَنْشَقُّ الْأَرْضُ وَتَخِرُّ الْجِبَالُ هَدًّا

أَنْ دَعَوْا لِلرَّحْمَنِ وَلَدًا

وَمَا يَنْبَغِي لِلرَّحْمَنِ أَنْ يَتَّخِذَ وَلَدًا

「この[多神教徒の]誤った醜い言葉により、まもなく天は崩れ、大地が裂け、山々が崩れ落ちようとする。それは彼らが、神に子があるとしたためである。子を設けるなどとは、慈悲深い神にふさわしくないことである」 (19:90~92)

 

創造世界は、唯一神信仰に基づいて築かれており、神に子がいるという主張は、神の唯一性に矛盾する、誤ったものです。そのためこの3つの節は、次のように語っています。「どうやら天と地は、このような多神教に穢れた考え方により、崩壊と落下の危機にあるようだ」

言い換えれば、神に別の神を配することは非常に重大なことであり、天も大地も、それに耐える力はありません。それなのに、多神教を信じる人間は、そのような愚かで醜いことを口にさえします。しかし、原則的に神が子供を持つことは、優れていることを示すのではなく、神の地位を低くすることになります。なぜなら、神が創造したものが、その子であるとされるからです。

 

90節~第92節の教え

・罪を犯せば、たとえ神がそれを妨げたとしても、創造世界の秩序が崩れる可能性があります。コーランの別の節にあるように、コーランが山に下されていたら、神の威信により、山は粉々になっていたでしょう。

・多神教信仰は、創造世界において、最も危険な堕落であり、魂のない自然でさえも、それに対して反応を示します。

・子供を持つためには、配偶者が必要です。しかし、誰も神と同等のものはいません。そのため神が配偶者を持ち、子供をもうけることはないのです。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

聖書やコーランは、真理が記述された書物だと思います。

しかし、宗教とこれらの書物とを同一視することは

間違いだと私自身は思っています。

あなたが真理に導かれて、

この世を正しく生きてゆかれることを願っています。

 

 

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