神様の御導きに従って永遠の幸福を生きる

神様の御導きのもと皆様が永遠の幸福へと誘われますように…

死んだらどうなるのか。臨死体験が物語る死後の世界。

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フラ・アンジェリコ作『Christ Glorified in the Court of Heaven』
出典:https://www.wikiart.org

 

私たちは、生きていればいずれ必ず、死というものを経験することになります。

大きな地震や大きな台風による甚大な被害、今であればワクチン被害により、多くの方が亡くなられていますが、そういう事態が起きてくると、今まで平穏に過ごしていた人も、死というものを身近に感じずにはいられなくなります。

ところが、死んだらどうなるのかがわからないから、怖いと感じてしまい、日々テレビなどで死亡に関するニュースが多く流れてくると、気分は落ち込み、暗い世の中を、希望も見いだせないまま生きてゆくことになります。

わからないから怖いのであって、それを知ろうとしないから、ますます恐れは増すばかりなのではないでしょうか。

しかし、死んだ人は、基本的には生き返ってくれないので、体験談を聞くことができません。

ですから、死後の世界はわからないことだらけということになってしまいます。

今日は、そのわからないことだらけの死後の世界について、少し考えてみたいと思います。

 

 

臨死体験について  〜石原結實氏(医学博士)の著書より〜

医学博士 石原結實氏の著書「死んだらどうなる」に、次のようなことが書かれています。

臨死体験

 

「生」と「死」について、そして「霊の存在」を理解可能にする事象が「臨死体験」である。

病気や事故などで仮死状態に陥った人や以前なら死亡していた心筋梗塞や脳梗塞、外傷や病気による大出血等々で瀕死の状態の人が現在の優れた救急救命治療により蘇生された場合、その1〜2割の人がその後、元気になってから臨死体験について語るという。

「美しいお花畑やそこで手招きしている亡くなった父母や姉妹が見えた」や、「自分の肉体を浮き上がった自分(霊)が見ていた」というものが、ほとんどのようだ。

 

 

60歳の婦人が自転車に乗り、青信号で横断歩道を渡ろうとしたとき、赤信号を無視して、猛スピードで走ってきた乗用車に跳ねられ、4〜5メートル先のコンクリートの電柱にたたきつけられた。頭、手、足より大量の出血があり、全身に激痛が走る。必死でこらえていたときに、吐き気を催し、吐瀉物が口から吹き出してきたことまでははっきり覚えているが、あとは、夢なのか現実なのかわからない状態に陥った。

するとパーッと明るく美しい光に満たされた大地に川が走っている光景が目に入ってきた。川の向こうには美しい花がたくさん咲き乱れ、よく見ると亡くなった父や母、それに幼いころかわいがってくれた祖父母が満面の笑みを浮かべて「こっちへ来るように・・・」と手招きをしている。「ああ、これが三途の川か・・・」と思い、渡ると死ぬことを本や世間話から知っていたので、親類には会いたかったが、必死に思いとどまった・・・。

翌日、目を開けると、病院のICUのベットの上だった。事故後、周りの人が救急車を呼んでくれて、病院に運ばれたという。しかし、多量の出血と吐瀉物が気管を塞ぐことによる呼吸不全で仮死状態に陥っていた。医師団の懸命の治療で救命されたことを後で知らされた。

仮死状態のときに「三途の川」と「美しく花が咲き乱れる彼岸」を見たのだろう。

 

これが、臨死体験をされた方の体験談です。

この方は三途の川についての話をご存知でした。

次に引用するのは、三途の川の話を知らなかった方の臨死体験のお話です。

 

しかし、渡ろうと思ったが、渡れずに現世に戻ってきた人もいる。私が若かりし大学病院勤務時代に受け持った40歳代の男性だ。

肝臓ガンのため、外科に紹介し、ガン腫を摘出する手術(当時は、腹腔鏡による手術などなく全て開腹手術)を受けている途中、突然、心肺停止の状態に陥った。

麻酔医の必死の蘇生術により、運よく救命され、手術も終了した。その後1週間、外科病棟に入院した後、内科病棟に戻ってきた。

そのとき、主治医だった私に「奇妙な夢を見ました」と言って、次のように話してくれた。「手術室に入って麻酔をかけられるまでは意識がありました。6時間におよぶ手術後、病棟のベットに帰って、数時間後に目を覚ましたのも覚えています。しかし、その間、夢なのか、現実なのかわからない光景に遭遇したのです。

突然、目の前に川が現れ、向こう岸には美しいお花畑が見えました。よく見ると、ここ2〜3年で相次いで亡くなった父と母が私を呼んでいるのです。目の前にあった小舟に乗り、向こう岸にこぎ出しましたが、川の流れに押されてたどりつけないのです。

何回も何回も必死の力で試みましたが、結局は船が下流に流されて、向こう岸には行けなかったのです」というもの。

この患者さんに「死ぬと、三途の川を渡り、向こう岸には美しい光と花に満ちた世界があると、これまでに聞いたことがありますか」と尋ねたところ、「そんなことはまったく知りません。初耳です」とおっしゃる。

この「奇妙な夢」は心肺停止の状態のときに見たものであろう。「三途の川」「美しい花が乱れ咲く彼岸」について、まったく知らなかった人がこうした表現をするのだから、臨死体験をした人の「共通の表現、風景」は真実なのかもしれない。

 

 

臨死体験について  〜おもかげ復元師 笹原瑠衣子さんのお話〜

YouTubeにも、三途の川を渡りかけた方のお話がありましたので、掲載させていただきますね。

youtu.be

この方の話では、三途の川には渡り方が3つあるそうです。

この世での行いによってそれぞれ渡り方が違うみたいですね。

 

このように、臨死体験をされた方が遭遇した光景は、皆さん同じ光景のようです。

偶然とは思えません。

あくまで、臨死の状態での光景ですので、実際に亡くなられた方が体験されるものと同じだと断言することはできませんが、この臨死の状態で体験することが、死後の世界を垣間見せるもののように感じます。

 

 

死後に住まう”楽園”  〜コーランの描写〜

コーランに、神様を信仰し善業を行った人々が入れる”楽園”についての描写がいくつか出てきます。

 

コーラン第9章 タウバ章 悔悟 

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

第72節

وَعَدَ اللَّهُ الْمُؤْمِنِينَ وَالْمُؤْمِنَاتِ جَنَّاتٍ تَجْرِي مِنْ تَحْتِهَا الْأَنْهَارُ خَالِدِينَ فِيهَا وَمَسَاكِنَ طَيِّبَةً فِي جَنَّاتِ عَدْنٍ وَرِضْوَانٌ مِنَ اللَّهِ أَكْبَرُ ذَلِكَ هُوَ الْفَوْزُ الْعَظِيمُ

「神は信仰を持つ男女に楽園の庭園を約束している。そこでは木々の下を小川が流れ、彼らはそこに永遠に留まる。また、心地よい住み処を至高の楽園に約束する。もちろん、神の満足は[これら全ての恩恵よりも]優れたものである。それは大きな幸福である」 (9:72)

前の節では、偽善者に対して厳しい責め苦や業火を約束していましたが、それに続くこの節では、敬虔な人間に対する神の約束は、美しく恩恵に満ちた楽園での安らぎ、幸福であるとし、こう語っています。「神の楽園は永遠のものであり、また楽園に行った者は、そこに永遠に留まることになる。彼らが楽園に疲弊することも、また彼らに留まる期限を定めることもない。神の満足を得ることは、それは敬虔な人間の最高の望み、要求であり、彼らはそれを楽園で手にし、それを誇りにする。この神の満足は、人間が手にすることのできる最高のものであり、それによって真の安らぎを得られるだろう」

第72節の教え

来世での生活は、精神的な側面に限られず、物質、精神の両面を兼ね備えています。もちろん、精神的な満足は、肉体的な満足に優るものです。

神は最後の審判の際、敬虔な人間が奪われた現世の物質的な満足の全てを、最高の形で償ってくださいます。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

コーラン第18章 アル・キャアフ章 洞窟 

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

30節~第31節

إِنَّ الَّذِينَ آَمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ إِنَّا لَا نُضِيعُ أَجْرَ مَنْ أَحْسَنَ عَمَلًا

أُولَئِكَ لَهُمْ جَنَّاتُ عَدْنٍ تَجْرِي مِنْ تَحْتِهِمُ الْأَنْهَارُ يُحَلَّوْنَ فِيهَا مِنْ أَسَاوِرَ مِنْ ذَهَبٍ وَيَلْبَسُونَ ثِيَابًا خُضْرًا مِنْ سُنْدُسٍ وَإِسْتَبْرَقٍ مُتَّكِئِينَ فِيهَا عَلَى الْأَرَائِكِ نِعْمَ الثَّوَابُ وَحَسُنَتْ مُرْتَفَقًا

「まことに信仰を寄せ、善い行いをした人たち、[彼らは知るがよい。]我々は、善い行いをした人の報奨を決して損なわない。彼らには永遠の庭園があり、その下を小川が流れている。そこで彼らは金の腕輪で飾られ、一部は厚く、一部は繊細な緑色の絹の衣を身にまとう。彼らは楽園の王座にもたれかかる。それはなんとすばらしい報奨であり、居心地のよい場所であることか」 (18:30~31)

 

高慢で欲望に従う不信心者たちの居場所が地獄であるのに対し、この節は、信仰を寄せた人々が行き着く場所について触れ、次のように語っています。「あなたたちが現世で貧しく恵まれないと思っていた人々は、神の道をしっかりと守り、預言者に忠誠を誓っていたため、最後の審判で最高の居場所を与えられる。そこは現世で裕福だった人たちが、一瞬でもいいから入りたいと思うような場所である」

たとえ今は、貴族たちが華やかな服を身にまとい、貴重な飾りをつけて横柄に振舞っているとしても、貧しい敬虔な人たちは、最後の審判で、現世の貴族のものとは比べものにならないほど、華やかな服や飾りを身につけます。もちろん、これらは皆、貧しく敬虔な人々の神への信仰と義務の遂行、そして神の恩寵によって得られるものなのです。

 

30節~第31節の教え

・信仰する人たちが、神の命に従ったがために現世で失ってしまったものを、神は来世で償い、それ以上のものを彼らに与えてくださいます。

私たちは神のために行動しましょう。神が私たちの報奨を減らすことはなく、またその報奨は永遠のものです。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

コーラン第22章 アル・ハッジ章

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において 

23節

) إِنَّ اللَّهَ يُدْخِلُ الَّذِينَ آَمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ جَنَّاتٍ تَجْرِي مِنْ تَحْتِهَا الْأَنْهَارُ يُحَلَّوْنَ فِيهَا مِنْ أَسَاوِرَ مِنْ ذَهَبٍ وَلُؤْلُؤًا وَلِبَاسُهُمْ فِيهَا حَرِيرٌ

「神は信仰を寄せ、正しい行いをする人々を、木の下を小川が流れる楽園へと導く。彼らは黄金や真珠で飾られた腕輪をし、絹でできた衣を身にまとう」 (22:23)

 

前の説では、真理を否定し、不信心に走り、信仰を持つ人々と争い、神の責め苦と怒りを受けた地獄の人たちの状態について述べていました。それに対してこの節は、善を行う敬虔な人たちの場所は楽園であるとし、次のように語っています。「不信心者が現世で手に入れようとしてきたものを、神は来世で、信仰を寄せた人々に与える。最高の庭園、最高の衣服、最高の飾り。これらはどれも、不信心者が望んでいたものである。しかし、楽園に入った、善を行う人たちの最小の報奨がそれである」

敬虔な男性たちは、高慢にならないよう、現世では絹の衣を着たり、金や宝石の装飾品を使ったりすることが禁じられていますが、神は最後の審判でそれを償い、現世の衣服や装飾品よりも優れたものを、彼らに授けているのです。とはいえ、現世においても、世俗主義者のうち、本当に自分が望むものを手にできる人はごくわずかです。彼らの多くは、自分の目的を果たすことができず、現世と来世で損害を蒙ることになるのです。

 

23節の教え

みずみずしい緑の空間は、人間の肉体と精神に最高の満足をもたらすものです。そして、神はそれを、善を行う人々にとっての第一の報奨として提示しています。

・コーランの教育システムにおいて、恐怖と希望、警告と吉報の間にはバランスがあります。そこで私たちも、子供たちを教育する上で、そのバランスを守る必要があります。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

 

死後に住まう”楽園”  〜聖書の描写〜

そして、コーランで示された”楽園”とは、聖書に書かれた次のような場所のことなのでしょう。神様を信じて正しい道を生きた人は、この”楽園”で永遠に幸せに暮らすことになるのだと思います。

 

第21章

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。

10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。

11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。

 

(中略)

 

18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。

19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、

20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。

21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。

22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。

25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。

26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。

27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

 

第22章

1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

6 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。

7 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。

 

(以下省略)

 

出典:ヨハネの黙示録(口語訳) - Wikisource

 

 

 

宗教の信仰に関わらず、善い行いをした人全てが平等に救われる

コーランや聖書を引用したので、これは宗教のお話だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。そして、信仰する人というのは、宗教を信仰している人のことだと思われるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは仰っていません。誰でも神様に従順に従ったものは皆平等に救われるとおっしゃっています。

 

コーラン第3章 アール・イムラーン章 イムラーン家 第23節~第27節

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

第23節~第24節

أَلَمْ تَرَ إِلَى الَّذِينَ أُوتُوا نَصِيبًا مِنَ الْكِتَابِ يُدْعَوْنَ إِلَى كِتَابِ اللَّهِ لِيَحْكُمَ بَيْنَهُمْ ثُمَّ يَتَوَلَّى فَرِيقٌ مِنْهُمْ وَهُمْ مُعْرِضُونَ

ذَلِكَ بِأَنَّهُمْ قَالُوا لَنْ تَمَسَّنَا النَّارُ إِلَّا أَيَّامًا مَعْدُودَاتٍ وَغَرَّهُمْ فِي دِينِهِمْ مَا كَانُوا يَفْتَرُونَ

「汝は、経典の一部(旧約聖書)を賜っていた者たちが、彼らの間の裁判をその経典に頼るよう、呼びかけられるのを見ないか。彼らの一部は背き去った。彼らは堕落者である。

これは、彼らが『業火が私たちに触れるのは、何日かの間に過ぎないだろう』と、言うためで、彼らはその教えにつき、己の捏造したものに欺かれているためである。」 (3:23~24)

以前お話ししたように、ユダヤ教徒、特にその学者たちは、イスラムが真の宗教であることを認めていたにもかかわらず、イスラムを受け入れようとはせず、敵対心や妬みから不信心者となってしまいました。第24節では預言者に向かって、こう言っています。

「ユダヤ教徒たちが、あなたの宗教を信じなくとも悲しんではいけない。彼らは自分たちの宗教に対しても忠実ではない。ユダヤ教徒の一人が姦通の罪を犯した場合、投石刑が適用される。トゥーラート・ムーサーの経典にある、その処罰から逃れようとしてあなたの元にやってきたユダヤ教徒は、イスラムがこれより軽い刑で済むかもしれないと考えていた。だがあなたが、コーランの処罰がユダヤの戒律と変わらないことを伝えたところ、彼はユダヤの戒律さえも否定し、神からの命令を隠匿してしまった。」

コーランは、このようなご都合主義を宗教的高慢さに起因するものと見ていますが、イスラエルの民の行いがその顕著な例となっています。彼らは、自分たちは他の民族よりも神に深く愛され、より優れた民族なのだから、最後の審判の日においても地獄へ行くことはなく、行ったとしても何日かの間、罰を受けるくらいのことだろうと考えていたのです。

第23節~第24節の教え

・主張することが信仰心の表れなのではありません。処罰などの、神の命令が執行される時、各々の信仰心が証明されます。

どのような優越感を持つことも、高慢になることも許されることではありません。たとえそれらが宗教や敬虔の念に起因するものであったとしても。

・現世および来世において、すべての人間は神の戒律の前に平等です。誰も他人と比べ、優遇されることはありません。

第25節

فَكَيْفَ إِذَا جَمَعْنَاهُمْ لِيَوْمٍ لَا رَيْبَ فِيهِ وَوُفِّيَتْ كُلُّ نَفْسٍ مَا كَسَبَتْ وَهُمْ لَا يُظْلَمُونَ

「彼らはどのようになるだろう。疑いの余地のない審判の日、われが彼らを集めるときには、各人は、己の稼いだことに対し十分に報いられ、彼らは不当に遇せられぬのである。」 (3:25)

ユダヤ教徒の誤った考えについて説明する前の節に続いて、第25節はこのように指摘します。

「彼らが思い込んでいる事は誤りであり、神の御前では、ユダヤ教徒も非ユダヤ教徒も皆平等である。人々は己の行いと引換えに結果が与えられる。特定の宗教を信じているからといって優遇されることなどない。神は公正に基づいて、一人ひとりに判決を下される。それが懲罰であろうと、報酬であろうと、ほんの少しの見落としもない。」

第25節の教え

・神の懲罰と報酬は、いずれも信仰心や行いに基づいて与えられます。宗教や民族、人種などに左右されることはありません。

第26節~第27節

قُلِ اللَّهُمَّ مَالِكَ الْمُلْكِ تُؤْتِي الْمُلْكَ مَنْ تَشَاءُ وَتَنْزِعُ الْمُلْكَ مِمَّنْ تَشَاءُ وَتُعِزُّ مَنْ تَشَاءُ وَتُذِلُّ مَنْ تَشَاءُ بِيَدِكَ الْخَيْرُ إِنَّكَ عَلَى كُلِّ شَيْءٍ قَدِيرٌ

تُولِجُ اللَّيْلَ فِي النَّهَارِ وَتُولِجُ النَّهَارَ فِي اللَّيْلِ وَتُخْرِجُ الْحَيَّ مِنَ الْمَيِّتِ وَتُخْرِجُ الْمَيِّتَ مِنَ الْحَيِّ وَتَرْزُقُ مَنْ تَشَاءُ بِغَيْرِ حِسَابٍ

「祈って言うがよい。『おお、アッラー、王権の主。あなたはお望みの者に権能を授けたまい、お望みのものから権能を取り上げたもう。また、お望みのものを高貴にしたまい、お望みのものを低うしたもう。あらゆる善いことは、あなたの御許にあります。あなたは、よろずのことに全能であられます。』と。

あなたは夜を昼の中に入らせたまい、昼を夜の中に入らせたもう。またあなたは、死から生をもたらし、生から死を来させたもう。あなたは御心にかなう者に、限りなく給与を賜う。」 (3:26~27)

前の節では、啓典の民であるユダヤ教徒がイスラエルに対し、偏見や高慢さを持つことについて述べていました。第26節と27節では、預言者とイスラム教徒に向かって言っています。

「すべてのことは、神の手の内にあり、栄誉や真の権威は、神に属する。神は、メッカを、流血を見ることなく征服し、それによってあなたたちは勝利を手にした。このようにして神は、イランやローマなど各地において、人々の心をあなたたちの宗教に傾倒させ、イスラムを全世界に普及させるであろう。」

この内容については、歴史の中にも記述があります。アフザーブの戦いで、イスラム教徒たちがメディナの町の周囲に塹壕を掘っていた時のことです。預言者ムハンマドのツルハシが大きな石に当たり、火花が散りました。その時、預言者は言いました。

「私はこの火花の光の中に、クテシフォンやローマの城々を征服するイスラムの勝利を見ることができる。」

イスラム教徒たちは、この吉報を聞いて「神は偉大なり」と、神を称賛する勝利の言葉を叫びました。しかし偽善者たちは、彼らを笑い者にして言ったのです。

「あなた方はなんて空しい希望を持っているのだ。敵と対抗するのを恐れ、自分たちの周りに濠を掘っているのではないか。それなのに、イランやローマを征服できるとでも思っているのか。」

その時、この嘲りに対し神の言葉が下されました。

「このような考えを持つ者に答え、言ってやるがよい。『すべての存在は神に属す。神は天や地を創造されただけでなく、それらが軌道に乗って規則正しく廻り、昼と夜を交代させる力を持っておられる。そして、生と死、日々の糧、さらにすべての生き物は神の思うまま・・・。それならどうして、神がイスラム教徒に世界の統治を委ねることに驚くのか。どうして、栄誉と力を手にするため神以外のものを崇拝するのか。統治と権力を求めるのなら、それらを神の教えの中に見出すべきである。あなた方が宗教の戒律を守るのであれば、神は、どんな暴虐者も支配できないような栄誉と力を、与えるであろう。』」

今日、この世界が不信心者たちによって支配され、イスラム教徒が弱い立場にあるとすれば、それは次の二つの原因が考えられます。一つは、イスラム教徒の間の不和、分裂です。これは昔から屈辱のもとであり、圧制者に支配される要因となっていました。もう一つは、不信心者の知識や学問を得ようとする努力、そして自分が望む秩序と法の確立です。従って神は、理由もなく誰かに栄誉を与えることはなく、また誰かを卑しめることもありません。栄誉も屈辱も、その原因は私たち自身にあります。私たち自身の行いこそが、将来の社会の運命を決めていくのです。

第26節~第27節の教え

・宇宙、存在物の創造、そしてその運営・・、すべての秩序は神の手の中にあります。ですから、幸福を手にするためには、神の教えや法に従って行動しなくてはなりません。

・真の支配とは神に属するものです。それ以外の支配とは、儚く、束の間のものに過ぎません。今日あっても明日には無くなってしまうものなのです。

・自然界の仕組みは生と死、この二つの現象によって営まれます。神の力によって、命なき一粒の種が芽吹き、成長し、やがて豊かな緑を茂らせます。そうかと思えば、生を持たぬ食べ物から、命ある細胞が作られていきます。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

いかがでしたでしょうか。

 

臨死体験をされた人は、最後の審判の日を通過していませんので、実際に死んだ際には、いきなり臨死体験で見た三途の川を渡るわけではないと思います。

最後の審判の日に集められ、神様から裁きを受けた後に、その人の行いによって行き先が決定されるのだと思います。

三途の川を渡るのは、その後になるのではないかと思います。

 

 

最後に

善い行いをしている人は、死を恐れる必要などないということです。

ただ、私たちが考えている善い行いが、神様の考えておられる善い行いとなるかどうかは、分からないのです。

私たちは、この世でたくさんの惑わしや嘘に囲まれて、間違った”常識”を植え付けられて生きています。

真実を見極めて、神様に従い、善い行いをして天寿を全うしなければいけないのだと思います。

 

コーラン第3章 アール・イムラーン章 イムラーン家 第28節~第32節

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

第30節

يَوْمَ تَجِدُ كُلُّ نَفْسٍ مَا عَمِلَتْ مِنْ خَيْرٍ مُحْضَرًا وَمَا عَمِلَتْ مِنْ سُوءٍ تَوَدُّ لَوْ أَنَّ بَيْنَهَا وَبَيْنَهُ أَمَدًا بَعِيدًا وَيُحَذِّرُكُمُ اللَّهُ نَفْسَهُ وَاللَّهُ رَءُوفٌ بِالْعِبَادِ

「すべての人が、それぞれ行った善事とその行った悪事とを目の当たり見る最後の審判の日、彼らはそれと、その行った悪事との間に遠い隔たりがあることを望むであろう。アッラーは、汝らに親しく戒めたもう。アッラーは僕たちに仁慈であられる。」 (3:30)

第30節は、すべての信者に次のように警告しています。

あなた方の行いは、善行、悪行にかかわりなく、この世から消えることはない。それらは神、そして天使たちのもとに記録され、保管されている。そして最後の審判の日には、あなた方の目の前に形あるものとして示される。それゆえ、神の怒りを畏れ、醜い行いを控えなさい。なぜなら最後の審判の日に目の前に現される己の行った悪事、それらの醜い顔や耐え難い悪臭をあなたは嫌悪するだろう。その時あなたは、己と、その行ったことの間に大いなる隔たりがあったならば、と思うのだ。」

第30節の教え

・この世で、私たちが好ましいとする数々の所業が、最後の審判の日には憎むべきものに値することもあり得るのです。来世のことにも思いを致し、行動しなくてはなりません。

・神が私たちに警告するのは、愛と憐れみからであり、私たちを愛し、危険な事を知らせてくれているのです。

 

出典:光の彼方への旅立ち - Pars Today

 

 

神様の御導きのもと、皆様が永遠の幸福へと誘われますように。